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ぼきゃぶらいりぃ。 [日記]

中学だったか、高校だったか、忘れてしまったけれど、英語の教師に「君たちはボキャブラリィが貧困だ!」と言われたことがある。

辞書によれば

--------以下引用

1)〔vocabulary〕ある一つの言語体系で用いられる単語の総体。

言語体系をどのように限るかによって、内容が変わる。日本語という限り方をすれば、日本語の単語全体を意味し、漁村・農村あるいは特定の職業など、ある領域に限れば、その領域内で使われる単語の全体を意味し、ある個人に限れば、その人の使う語の総量を表す。

-------引用終わり。


日本語で言うと「語彙」
要するに、個人レベルで言えば、その人が使える言葉の数というとこか・・・。

教師に言われた当時は正直言ってむかついた。
が、ここに来て、先生のご指摘は正しく、自分のボキャブラリィが貧困であることを自覚しつつある。

っていうか、年々自分が使える言葉、その種類が減っていっているような気がするのだ。
そのことは、こういう風にブログを書いているときに痛切に感じるのである。


いちおう、大学は文学部、国文学科卒。
でも、まじめに勉学に励んだわけではない。
今、思えば、もっと貪欲に国語を学ぶべきだったのかもしれないと後悔後を絶たずである。


私見を述べると、僕は日本語は美しい文化であると思っている。
ひとつのもの、現象、事柄、を言葉にしても複数の単語が存在し、その言葉の意味だけでなく、響きや文字から奥にある深いものを感じることができる。

それを実感できる最たるものが俳句ではないだろうか?

「柿食えば 鐘がなるなり 法隆寺」

子規の代表的な句である。
この句を読んで、僕はこんなイメージを抱く。
近景に柿をかじる子規。子規の姿はシルエットになりつつあるか右半分のみ光があたっている。そしてその背中越しにボケた五重塔が見える。時間はやはり夕暮れだろう、西の空は赤く染まりつつある。そして、静寂をひときわ増すかのように鳴る鐘の音。

俳句のよさはその句に自分の経験や知識などを総動員して、あたかもそこにいるかのように情景をイメージする、あるいは作者の感情と一になることだと思う。それが簡潔に五七五の短文に示されている。

俳句なんて、年寄り趣味だと思っていたけれど、ちょっとやってみたくなった。

しかも探してみると、写真と俳句を融合させた、写真俳句ブログなんかもあるじゃないか!!

ふふふ( ̄ー

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CONTAX T2 京都木屋町通
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